屋根晴は、京都府美山町で職人見習いとしてスタートし屋根晴は、京都府美山町で
職人見習いとしてスタートし、その後、英国、日本全国で修行を積みました。
 この世界に入った時、最年少でしたが、上の世代は、全国的にみても昭和ひと桁
生まれの方ばかりで、間の世代が欠落していました。
 茅葺きは、全国で地方色があり、今のうちに全国に修行に行かないと習得できない、
との思いから、全国のご年配の職人さんの門戸をたたき、教えていただきました。
 皆さん終戦直後に15歳〜18歳で、とにかく働かなくてはいけない、という状況の中で
茅葺き職人になられました。皆さんに共通していることは副業を持たれていることです。
昭和40年代の高度成長期に茅葺きの仕事が極端に減り、生計を立てるために、副業を
もたれたのです。皆さん弟子はいたのですが、高度成長期に、弟子たちは転職してしまいました。
ですから、茅葺き職人は、40年間という世代の空白があるのです。
皆さん激動の時代の中、50年、60年と続けてこられた方々ばかりで、ただただ頭が下がる
思いです。
皆さんには、「信念を貫くこと」「なにくそ根性」「働くということ」「ハングリー精神」
を教えていただきました。
 屋根晴は、このような方々の後輩として、茅葺き職人の末裔として誇りに思います。


○故 山崎辰之助さん (京の現代の名工) 京都府美山町

 現役の時は、眼光するどく、寡黙で、黙々と仕事をする職人でした。
私が弟子入りした23歳の時、親方はすでに60歳でしたが、私が全力で親方に追い付こうと
してもおよびませんでした。毎日二人で息を切らして屋根を葺いておりました。
  一方、俳句や、音頭取り、アユ釣りなどの趣味もおありで、「たっちゃん」と呼ばれ、
地域でも人気がありました。
  親方は、「ワシの技術は棺桶には持ってはいけぬ。」と常日頃おっしゃられておりました。
お言葉のとおり、すべてを私に授けてあの世に旅立たれました。
  私は改めて、この人類最古といわれるこの技術が、私の個人の技術ではなく、太古の時代から
延々と職人を介して受け継がれてきた、「預かりもの」であることを実感いたしました。そして、
改めて日本人に生まれ、茅葺き職人の末裔であることに誇りを感じております。また、茅葺きは
絶対に滅びるものではありません。
私はこの「預かりもの」を現代にどう生かしていけばよいのか。それが私のこれからのテーマで
あり、いずれ私もこの「預かりもの」を次の人に預けなければなりません。
  親方には何も御恩返しはできませんでしたが、少しでも茅葺き文化に貢献することが親方への
御恩返しと思っております。